2017-12-01
今まで打ち込んでいた音楽ができなくなって、徳島県の海陽町という町に逃げてきました。
遠いところまで来てしまった..
前回書いたように、海陽町に行ったすぐの僕は、どん底でした。
自分のやりたいことを失ってしまった。大袈裟じゃなく、生きてる意味を探して、その焦りと、行ったことのない場所でひとり暮らしを始めた孤独。(もちろん、あえて追い込んだ部分もあります。)
海陽町に残っていた僕の同世代の人たちは、ほとんどが地元から出たことのない「就職組」か、海を求めてやってきた「サーファー」でした。音楽一筋で他のことを切り捨てるような生き方をしてきた僕に、話が合う友達はできません。
阿波踊りに参加しても、地域のお祭りで神輿を担いでも、周りは家族連れで楽しみに来ていたり、幼なじみの友達と来ていたり。なんだか自分の居場所はここじゃないような、満たされない気持ちのまま、7ヶ月が経ちました。
海陽町で一番大きい、大里八幡さんのお祭り
10月。
マット・ハモンドはやってきます。サンフランシスコ出身のアメリカ人。37歳。
町から子供がいなくなって、使われなくなった柔道場がありました。僕のアパートの隣にあったその建物に、マットは住み始めます。
はじめての会話は、「Wifiを貸してくれ」というものでした。(マットの仕事はWebのエンジニア。Wifiがないと、仕事ができなかったのです。)
“隣にアメリカ人がやってきた!!”
僕は、ひょこひょことWifiパスワードの書かれたカードを持って行きます。するとお礼に、ビールが差し出されてくる、、
最初の夜。道場にて
マットが中国で10年間住んでいた話。
僕が音楽を仕事にしてきた話。
マットの叔父さんは、サンタナという、有名なミュージシャンと共演していたということ。
話題は尽きず。その日はまだ家具も揃っていない道場で、遅くまで語り明かしました。
マットは、サーフィンとトレーニングを好みました。
海陽町はサーフィンの町
ある日、マットはAmazonでベンチプレスやダンベル、10万円くらいの機器を買って、自宅の道場に並べ始めます。
「これから月・水・金、毎週筋トレをする。」
すると、町中のアメリカ人が道場に集まり始めました。
レギュラーメンバーになったのは、ジェフとカイル。
二人とも学校で英語を教える先生として、この町に来ていました。
毎週月・水・金は、仕事終わりから筋トレをして、夕飯を一緒に食べることが日課になりました。夕飯の時にはニュージーランドから来ていたジョアンナも加わります。
金曜日には遅くまで飲み明かす。全編英語で映画を見ることも。
居場所のなかった町で、
道場が僕らの居場所になっていきました。
道場の庭は、BBQスペースに
僕たちはよく、将来の話をしました。
ジェフやカイルがやっていたALT(アシスタント・ラングエイジ・ティーチャー)の仕事には、期限があります。最長5年。それ以降は続けられないので、別の仕事を探さないといけない。
外国から一人日本に来て、VISAの問題もあって、仕事の種類も限られていました。
「次はどこに住むか。」「どんな仕事をするか。」
彼らも僕と同様、悩んでいました。
彼らが日本にいる間、母国ではトランプが大統領になったり、イギリスがEUから離脱することが決まったりと、世の中は、どんどん動いていきます。
その度に話をして、
僕が自分の中の価値観だけでやりたいことを考えていたのに対して、世界を見て、もっと広い視野で自分のやりたいことを考える彼らから、たくさんのことを感じさせてもらいました。
そして僕たちは、海陽町というまちを、楽しみました。
オーストラリア式の方法で牡蠣を養殖する健介さん
BBQがある度、取りに行かせてもらう。
ゆずの収穫
獲ったゆずと牡蠣は、BBQで食べる。
冬。近くの漁港で取れた、クエを喰う。
阿波踊り。あたご連
マットと僕は、あたご連の小太鼓部隊
彼らに救われました。祭りに出ても、飲み会に参加しても味気のなかった1年目が嘘のよう。
食べるもの、出会う人、語られる歴史、どれもが新鮮で、ぼくらの好奇心を刺激します。
僕らが楽しんでいることを感じてか、まちの人も、釣りに連れて行ってくれたり、家具を一緒に作ってくれたり。ほんとうにいろんな方に助けてもらいました。
友達と繰り出すまちは、発見に満ちています。
徳島で学んだこの生き方を、東京でも実行するため、雑司が谷のシェアハウスプロジェクトは始まったのでした。