雑司が谷Neighborhood Houseができるまで

Urban Meetup Tokyoは、東京の池袋の近く、雑司が谷という街に国際交流シェアハウスを運営しています。

『雑司が谷 Neighborhood House』と名付けられたこのハウス。名前のとおり、外国人と日本人が一緒に住んで「ご近所さん」を楽しむシェアハウスです。

シェアハウスをつくる道のりには、苦労も工夫も楽しさも、普通に暮らしているだけでは経験できない、たくさんのものが詰まっていました。

語り手はUrban Meetup Tokyo代表の竹内智則。
物語の始まりは、徳島県の田舎の町で暮らした体験から始まります..


1.ミュージシャンになる。

2017-11-30

僕は3年前まで、プロのミュージシャンを本気で目指していました。


子供たちの真ん中で、ジャンベを叩く!

音楽の道に進むと決めたのは、17歳のとき、高校2年。周りのみんなが、どの大学に行くか就職先を選ぶか、あれこれ話している中で僕は、「音楽を仕事にしよう。」と決めました。

音楽を仕事にする人って、多くが5歳とか10歳とか。そのくらいの頃から教育を受けているんですね。けど僕は、高校生の時に音楽をやると決めた。
自分が本気で打ち込めるものを仕事にして暮らしたかったからです。自分の人生なんだから、一つのことに仕事というレベルでプライドを持って生きたかった。

そこに、ミュージシャンという、高校生目にはかっこいい肩書きが相まって、僕は音楽家になることを決めたのでした。(そういう意味では、打ち込めるものがあることが大切で、本当は音楽じゃなくてもよかったんです)


僕は音程を聞き取る耳がなかったので、楽器にドラムを選びました。

生まれ育った静岡県から上京。市ヶ谷にある専門学校でドラムを学び、卒業後は音楽事務所にお世話になりながら、演奏仕事を引き受けるようになりました。

音楽の仕事は多くなく、バイトもしながら。生活は満足できる感じではありません。けれど、自分の演奏に自信を持っていたし、そこに100%打ちこめている自分が好きだった。

僕は、練習の内容とユニークさには自信を持っていました。工夫を凝らした練習をして、すこしずつ、実績を積んでいけば、音楽だけで飯を食っていけるようになる。そう信じて、毎日一歩ずつ進んでいるという感じでした。

すこしずつ努力は報われ、松田昌という日本一のピアニカ奏者のバックバンドで演奏する仕事をもらいます。
希望と工夫と、ユーモアに溢れたステージ。
僕の人生で最高の経験のひとつです。


ピアニカバンドで都内の小学校を回る

そのときには、
自分にこれだけの目標と充実感を与えてくれる、音楽が好きになっていました。

「このまま頑張れば、本当にミュージシャンになれる!」と思っていた。17歳の時に思い描いた目標に、もう少しのところまでやってきました。

ところがです。

フォームが悪かったのか、手首の筋を痛めます。
靭帯剥離(じんたいはくり)でした。

手術をしなければいけなくなりました。せっかく増え始めていた仕事は全てキャンセルします。
手術のあと、演奏できるようになるまで1年弱。

ここで、ギリギリだった家計環境が顔を現します。多くはなかったけど、今まで音楽で食いつないでいたお金。
それが入ってこなくなり、暮らしが立ちゆかなくなりました。
その場をしのいで、食らいつく方法は思いつかず。東京をあとにしました。


結果的に、自分のやりたいことを仕事にできなかったのです。自分のお金が尽きるほうが先でした。
そのとき23歳。17歳から始めた挑戦が、失敗に終わった瞬間でした。

音楽ができなくなってしまった。東京でも食べていけない。
その逃げ先として選んだのが、徳島県の海陽町という田舎まちでした。

(つづきます。)


雑司が谷Neighborhood House

雑司が谷シェアハウス

雑司が谷は、池袋・高田馬場にも歩いていける都心なんだけど、ゆっくりした雰囲気の残っている町。ご近所さんとの繋がりがあって、お祭りもあって。その場所に住むことを楽しみたいという想いで「Neighborhood (ご近所)」という名前をつけました。

きっかけが無いと交わらない人生。だけど、ひとつ自分たちの居場所ができれば、新しいことは始まっていきます。

一緒に住んで、雑司が谷という町を楽しみながら、美味しいものを食べたり、将来の話ができる。ゆっくりしているけど、エネルギーのある、そんな素敵な住み家です。

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